附属中学校の敷地の変遷

2023年2月に「(2) 筑波大学附属中学校とは?」の「2. 敷地について」を大幅に加筆・修正した際に、どうせならと開校(1888年)以来の同校の敷地の変遷についても調べようと思い、開校100周年記念誌及び120周年記念誌やネットで手に入る資料(写真、古地図、敷地平面図等)などを使って詳細な調査をしました。そうしたところ、個々の資料からはわからなかった新たな事実が見えてきました。そこで、それらを附属中学校の敷地の変遷という視点で再整理してみました。

 

なお、以前は現在の場所から古い場所へと時代をさかのぼっていくようにまとめてありましたが、やはり実際の時間の流れに沿ってまとめてあった方がわかり易いと考え直し、古い場所から現在の場所へという順番に構成し直しました。また、新たに判明したことも追加して、現時点での“完全版”のつもりです(4/20/2024)。

 

1. 文京区湯島1丁目(旧本郷区湯島2丁目① 1888年~1890年

附属中学校の原点は東京高等師範学校の旧敷地にあります。そこは現在、東京医科歯科大学及び湯島聖堂のある場所です。それは、師範学校の原点が昌平黌(しょうへいこう=昌平坂学問所)、すなわち湯島聖堂にあるからです。なお、各種資料では湯島地区の当時の名称が「神田区宮本町」となっていますが、同町は1887年に本郷区湯島に改編された-つまり附属中ができた時点では地名が変わっていた-ので、ここでも旧町名はその名称としました。

↑旧東京高等師範学校があった文京区湯島1丁目

現在の東京医科歯科大学湯島聖堂の場所を合わせた場所(紫線部分)がそこにあたります。

 

↑1889(明治22)年の師範学校平面図

左の方の建物が附属小学校及び女子師範学校の校舎、左上端が附属幼稚園(現・お茶の水大学附属幼稚園)の園舎で、右の方の白抜きされた場所が湯島聖堂です。「本校門」(正門)が現在の「聖橋」(ひじりばし)付近、「附属小学校門・女子師範学校通用門」が現在の「お茶の水橋」付近にあったことがわかります。当時の状勢から、高等師範学校の学生(男子)と女子師範学校(翌1890年に女子高等師範学校)の学生(女子)の通学を分けるために校門をあえて2つ造ったのではないかと思われます。左から3分の1あたりの場所(中央やや左)に縦に木が並んでいるのも男女師範学校を緩く分けるためのものだったのでしょう。なお、お茶に水橋の初代が1891年完成、聖橋が1927年完成なので、当時は橋を渡ってすぐに校門へとはいかなかったはずです。

 

2024年度前期NHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』では、主人公のモデルが東京女子高等師範学校附属高等女学校(ドラマでは「高等女学校」)や明治大学(ドラマでは「明律大学」)に通っていたことから、旧お茶の水橋(ロケ地は「長池見附橋」)が度々登場しています。 

 

附属中学校は、1888(明治21)年に附属小学校の中にできた「尋常中等科」からスタートしました。そのせいもあって、当時の資料には附属中学校の記述がありません。本校の『創立百年史』や『創立120周年記念写真集』でも「どこに附属中があったかは不明」のような記述が見られます。したがって、その頃は「附属小学校」と記述されている校舎のどこかにあったと判断するのが妥当でしょう。上の平面図にも尋常中等科の記述は見られません。

 

なお、1885年に旧女子師範学校が高等師範学校の「女子部」となり、1886年~1890年はさらに「女子師範学科」となっていたため(1890年に「女子高等師範学校」として独立)、上の1889年の見取り図では男女師範学校及びそれぞれの附属学校園は一緒になっています。

 


東京医科歯科大学正門横にある「近代教育発祥の地」の碑と解説板

※2019年建立ですが(2020年撮影)、病棟の増築工事のため一時的に撤去されています(2024年4月)。

◎湯島聖堂(昌平坂学問所)については別途こちらに詳しい記事があります。

 

2. 千代田区一ツ橋2丁目(旧神田区一ツ橋通町) 1890年~1896年

1890(明治23)年、それまで東京高等師範学校の敷地内にあった附属中学校(当時は「附属尋常中等科」)は、附属小学校と共に旧神田区一ツ橋通町(現千代田区一ツ橋2丁目)に移りました。現在、ここには共立女子大学、同女子短大、同女子高校、神田一ツ橋中学校、岩波書店、学術総合センター、如水会館(一ツ橋大学同窓会館)などがあります。 

一ツ橋校舎があった神田区一ツ橋通町(現千代田区一ツ橋2丁目)

※おそらく赤線で囲んだ場所のどこかにあったと思われます(以下にその場所があります)。 

 

当時の神田一ツ橋通町付近(1892年『東京全図』

※おそらく2つある「一ツ橋通町」の上の土地がそうではないかと思われます。 

附属小・中学校がこの場所に移ったのは、一時的に政府直轄の官立校となっていた高等女学校を女子高等師範の附属に戻し、附属幼稚園を女子高等師範に移管し、一時的に一緒になっていた旧女子師範の附属小学校の児童を再び独立した女子高等師範の附属小学校に移したことで、高等師範学校の附属小学校(尋常中等科を含む)の場所を別に確保する必要が出てきたためと思われます。 

 

←神田区一ツ橋通町にあった校舎の平面図(『創立120周年記念集』より)

各教室には「第1部 尋1」や「第2部 高1・2」などの表記が見られますが、尋常中等科の表記は見られません。「第〇部」とは、現在の「組」に相当するもので、当時の附属小学校は「部」ごとに独自の教育を行っており、その名残が現附属小学校の「〇部〇年」という呼び名に残っています。一方、「尋」と「高」はそれぞれ「尋常小学科」と「高等小学科」を表すと思われ、これらは1897(明治30)年に創設されたものです(附属小学校ホームページより)。なお、第3部は高等師範学校の敷地内に置かれているので(3.の平面図参照)、ここには載っていません。

 

以上のことから、上の平面図は附属中学校が宮本町に戻ってしまった後の附属小学校のみ存在していた年(1899)のもので、附属中学校の一ツ橋校舎とは言えないでしょう。しかしながら、附属中学校がこの校舎を使っていたことは確かであり、他にこの時期の附属中学校の平面図が見当たらないないので、その見取り図をそのまま使いました。

←神田一ツ橋校舎

 

上の図面の中央にある大きな建物の右手前方向から撮影した写真と思われます。平屋建てで、当時の小学校(尋常中等科を含む)としてはかなり立派な建物に感じられます。

 

《一ツ橋校舎の正確な場所が判明!》

この時代のことについては、『創立百年史』や『創立120周年記念写真集』でも少し紹介されていますが、附属中学校が一時的に移動した場所であることから、本校関係者にもあまり知られていない時代です。しかも、その記念誌や他の関係機関(旧東京高等師範学校、筑波大学附属小学校他)の古い文献をあたっても、詳しい場所がなかなかわかりませんでした。また、1890年~1896年の手に入るすべての古地図を調べても、「一ツ橋通町」という場所はあるものの、そこには附属小学校や附属中学校を表す施設名が書かれていません。

 

さらに、当時の所在地については、『創立百年史』では「神田区一ツ橋通町の東京高等女学校跡地に」あったとされています。東京高等女学校は創立時は日本初の官立女学校「東京女学校」(後の女子師範学校附属高等女学校、現お茶の水女子大学附属中・高等学校)ですので、現在校のホームページを見ると、その沿革に当該女学校は「立地より『竹橋女学校』『竹平女学校』と通称される」と書かれていました。

 

(1) 「東京高等女学校跡地」ではない(?)

1876年の『新選区分東京明細図』で当該場所を探してみると、1878年以降の『東京全図』他の地図では「竹平町 文部省」と書かれている場所に「女学校」と書かれていることを発見しました。皇居の竹橋の目の前であることと竹平町にあることから、ここが東京高等女学校(当時は東京女学校。1872年創立)の場所でもあったのはまちがいありません。文部省は1977年に同校が一端廃校になった直後にここに庁舎を構えており、それが1923年の関東大震災で焼失するまでの間の地図ではすべて「文部省」となっています。

実は、2024年2月の時点では、『創立百年史』の記述を元に調査した結論として、ここが一ツ橋校舎の場所だという情報を一時的に公開していました。しかし、調べれば調べるほどその情報と事実が一致しないことがわかり、再度あらゆる資料をしらみつぶしにあたってみることにしました。そして、1870年代~1880年代の東京の古地図をしらみつぶしにしたべたところ、ついにその場所を見つけました!それは上の「竹平町」ではありませんでした。ぜひ(2)をお読みください。もっとも、1886年~1890年に一時的に文部省直轄の学校として女子師範から独立していた東京高等女学校の校舎がその場所に新設されていた可能性もありますが、その間のどの地図にもそこにはそのような施設名はなく、同校の沿革にもその記述はありませんので、「東京高等女学校跡地に」は誤記である可能性が高いです。

 

(2) 一ツ橋校舎の場所を特定

左の地図は、1883年の『東京図測量原図:東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍』の左上端です。そこに1892年東京全図の一ツ橋通町にあたる場所が載っているので、その北半分を見てください。「体操練習場」と書かれている部分がそれです。上の校舎見取り図を北が上になるように右に90度回転させると敷地の形が一致します。ここに新しい校舎を建てたのでしょう。

 

実は、ここが一ツ橋校舎の場所であったということは、すでに『創立120記念写真集』のp.21に当該場所の地図とともに書かれています。ただし、同時に『創立百年史』と同様の「東京高等女学校跡地に」という記述もあり、最終的な結論を下すのに時間と手間がかかりました。

 

【コラム①】東京外語大学、一橋大学、東京大学のルーツについて

上の地図で道をはさんだ南隣(一ツ橋通町の南区画)は「東京外国語学校」で、後の東京外国語大学の前身です。ただ、地図によっては「一番中学校」や「高等商業学校」という表記もあります。前者は後に東京外国語大学へ続く「第一大学区第一番中学校」、後者は後の一ツ橋大学の前身です。同じ場所に複数の大学のルーツが混在しているのは、これらの学校の学部が複雑な過程で東京外国語大学と一ツ橋大学になっていったからです。さらに、その右隣は「東京大学」で、これより古い1870年代の地図では「開成学校」(東京大学の前身の1つ)となっています。現在の東京大学は文京区本郷と目黒区駒場にあるので、ここにはありません。現在、左の場所に一橋大学同窓会の「如水会館」、右の場所に東京大学同窓会の「学士会館」がありますが(東京外国語大学は同窓会館を持っていません)、その理由はそれぞれのルーツがここにあるためです。

 

【コラム②】東京高等女学校について

これまでに何度か登場した同校は、日本初の官立女学校として創立された学校ですが、度々立場や管轄が変わったために何度も名称が変更された、まさに数奇な運命の学校でした。

・1872年…官立女学校 ※創立時

・1872年…(官立)東京女学校(通称:竹橋女学校、竹平女学校) ※名称変更 

・1877年…廃校→在校生は東京女子師範学校「英文科」のちに「別科」「予科」へ

・1879年…上記「予科」廃校→生徒は私立の女子師範学校予備校へ

・1880年…東京女子師範学校「予科」 ※旧生徒復帰

・1882年…東京女子師範学校附属高等女学校(通称:お茶の水高等女学校)

・1885年…東京師範学校附属高等女学校 ※東京女子師範学校が東京師範学校に統合

・1886年…東京高等女学校  ※高等師範学校から独立して、翌年文部省直轄に

・1890年…女子高等師範学校附属高等女学校 ※女子高等師範学校が独立して附属に再復帰

・1908年…東京女子高等師範学校附属高等女学校 ※奈良女子高等師範学校設立のため名称変更

・1947年…東京女子高等師範学校附属中学校・高等学校 ※新学校制度で中高分離

1952年…お茶の水女子大学文教育学部附属中学校・高等学校 ※東京女子高等師範学校廃校    

・1980年お茶の水女子大学附属中学校・高等学校 ※附属学校園が学部から大学直轄に 

・2004年…国立大学法人 お茶の水女子大学附属中学校・高等学校  ※国立大学法人化

 

3. 文京区湯島1丁目(旧本郷区湯島2丁目② 1996年~1910年

↑1898(明治31)年の東京高等師範学校平面図

左下の離れた校舎が附属中(附属尋常中学校)。中央右に湯島聖堂の大成殿、その右に附属小学校第三部(第一部と第二部はまだ神田一ツ橋に残っていた)があり、湯島聖堂が師範学校の敷地内にすっぽり入っていることがよくわかります。

 

1896(明治29)年に神田一ツ橋校舎(前項参照)から師範学校の敷地(「本郷区湯島」に地名変更)に戻ってきた附属中学校は、敷地内に独立した校舎(平面図左下の「附属尋常中学校」)が与えられましたが、1903(明治36)年に師範学校が大塚窪町に移ると、師範学校の旧校舎に移ったという記録があります。その頃の平面図は見当たりませんが、1909(明治42)年の一帯の地図には師範学校の校舎の部分に「高等師範附属中学」の記述が見られます。なお、この時期の附属中学校の校舎の単独写真は残っておらず、120周年誌にも当時の生徒が描いた校舎の絵が載っているだけです。 

 

←上の見取り図の左側にあたる場所にある東京女子高等師範学校の見取り図

 

この頃は東京女子高等師範学校(上の図の左側に存在する土地にあった)は完全に独立した存在となっていて、平面図も別になっています。

 

見取り図には師範学校本校の他に、附属高等女学校(後の附属中・高等学校)、附属小学校、附属幼稚園を見ることができます。

 

※これら2つを左右に並べると、1.の平面図と同じ形になります(ただし写真の縮尺が異なります)。

←1876年の古地図に乗っている両校の敷地

 

1889年の見取り図にはない師範学校と女子師範学校の境界は、この古地図では明確にされています。ただし、地図のための便宜的な境界線であった可能性もあります。なお、東京師範学校の右にある「東京書籍館」(とうきょうしょじゃくかん)とは、1872年に創設された日本初の公立図書館(創設時は「書籍館」、1875年より「東京書籍館」)で、現国立国会図書館の前身です

 

4. 文京区大塚3丁目(旧小石川区大塚窪町) 1910年~1940年

本校は、現在の場所に移る前は一時期を除いて東京高等師範学校の敷地内にありました。師範学校は1903(明治36)年に文京区湯島(上の「3」参照)からこの場所に移ってきていますが、附属小学校は翌1904(明治37)年と1909(明治42)年の2回に分けて、附属中学校は1910(明治43)年にここに移転してきました。なお、附属小学校は現在も当時の場所にそのまま残っています。

 

附属中学校のあった場所は、現在筑波大学東京キャンパスに隣接した「教育の森公園」という地域の人たちの憩いの場所になっています。

が当時の附属中学校の場所

東京高等師範学校の敷地の西の端にあった。は現在の附属中。

 

↑1930(昭和5)年頃の東京高等師範学校平面図

※中央下のL字型の建物が附属中学校の校舎

この場所は2019年NHK大河ドラマ『いだてん』の前半で主人公の金栗四三(演・中村勘九郎)が通っていた場所です。詳しくは「ブラノーリー(文京区ぶらり旅)」コーナーの「⑥ 大河ドラマ『いだてん』ゆかりの地」をご覧ください。

 

←附属中学校の校舎と運動場

上の平面図にによれば、左の建物が第一校舎で、右が第二校舎。運動場は師範学校と共用であったようです。生徒がライフル(模擬銃)を構えているのが世相を表しています。

 

※この写真は偶然のきっかけで知り合いになった仙台市のY様からお借りした1913(大正2)年の師範学校の卒業アルバムより(Y様のお祖父様が同年の卒業生)。同アルバムには大河ドラマ『いだてん』の主人公・金栗四三の写真も載っています。

 

※件の卒業アルバムの複製版が附属中の校長室にあります(ニシノフォト依頼作成)。

 

5. 文京区大塚1丁目9-1(旧小石川区大塚町56) 1940年~現在

附属中学校が現在の所在地(文京区大塚1-9-1、旧小石川区大塚町56)に移転してきたのは、1940(昭和15)年です。この場所は旧陸軍の弾薬庫(大塚陸軍弾薬庫)があった場所の一部です。崖の上の突端にあることから、弾薬庫にするにはちょうど良かったのでしょう。昭和3年(1928年)に旧大塚陸軍弾薬庫が板橋陸軍弾薬庫内に移転したため、その跡地の北部が昭和7年(1932年)に東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の敷地に、南東部が昭和8年(1933年)に跡見学園(現跡見学園女子大学・跡見学園中学校高等学校)の敷地に、残った南西部の大部分が昭和15年(1940年)に本校(当時は東京高等師範学校附属中学校)の敷地になりました。

↑現在の本校の敷地

周囲に複数の大学や幼・小・中・高があり、まさに“文京”地区の中にあります。画面右上端は4で紹介した筑波大学東京キャンパス文京校舎他の施設がある場所で、茗荷谷駅の西隣りにある数字「4」の場所には令和5年4月に中央大学法学部茗荷谷キャンパスが開設されました。

 

では、ここからは現在の所在地がどのような場所であったのかを、①江戸時代末期②明治時代初期③明治時代後期④終戦直後、と時を追って見てみましょう。

 

① 江戸時代末期

現在の本校の敷地は、江戸時代末期は老中・安藤対馬守信正(あんどうつしまのかみのぶまさ)の屋敷地の裏手で、地目としては何もない土地でした。おそらく林か畑であったのではないかと思われます。安藤信正は文久2年(1862年)に尊王攘夷を唱える一派により江戸城坂下門外で襲われて(いわゆる「坂下門外の変」で)、老中を辞した人として知られています。その屋敷地(隣のお茶の水女子大学や跡見学園の敷地を含む)が明治時代になって陸軍省の敷地として接収されたようです。安藤信正はこの地図の時点では「長門守」(ながとのかみ)となっています。

↑江戸時代末期の本校周辺地図近年作成されたもの。現在閲覧不可

本校のある場所の右上には「安藤長門守 磐城平藩下屋敷」と書かれています。

↑嘉永6(1853)年の本校周辺地図

本校の場所には東西南北の方位図があります。また、現在の「音羽通り」(中央縦の道)が護国寺の参道であったこともわかります。

安藤信正

「長門守」(ながとのかみ)とは安藤信正に対して「対馬守」(つしまのかみ)以外に与えられていた役職名です。


 

安藤信正については、2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』第10話「栄一、志士になる」(4/18放送)に登場し、「坂下門外の変」も描かれました。江戸時代末期の古地図によると、現在本校がある場所には「安藤長門守」と書かれた広大な敷地が区分けされています。その場所に本校が建てられているということを改めて確認して、同番組を少し身近に感じることができました。 

 

② 明治時代初期

↑1876(明治9)年の本校周辺の地図

これは「紀元2536年」、つまり1876(明治9)年の東京の古地図の一部です。ちょうど地図のタイトルの模様がかかってしまっていますが、附属中の場所には「畑」と書かれています。①では地目がはっきりしませんでしたが、これでこの土地が以前は畑であったことが判明しました。すぐ南側には家がたくさんあり、タイトル付近には護国寺があるので、それらに挟まれた開けた場所であったようです。

※「紀元」とは明治5年に定められた日本の歴史上の年数を数える基準で、神武天皇が即位した年を元年と定めたものです。1940(昭和15)年には「紀元2600年」の祝いが催されました。「1876年」という年号はそこから引き算したものです。

 

③ 明治時代後期


↑1905(明治38)年頃の本校周辺地図

この頃は一帯が「兵器支廠」、つまり大塚弾薬庫であったことがわかります。本校もお茶の水女子大学も跡見学園もないだけでなく、現在三者を分けている道路もまだありません。右上にある現在の筑波大学東京キャンパスの場所は「高等師範校」と記されています。

 

なお、以前はこの地図の年代を元の資料どおりに「1895年頃」としていましたが、1903年に師範学校がこの場所に移って来たこと、1904年に部分移転した附属小学校の校舎が見えるのに1910年にこの場所に移ってきた附属中学校の校舎が見えないことなどから、地図の年代を事実に合うものに変更しました。

 

④ 終戦後

↑1950年頃の本校周辺地図

附属中学校の敷地には戦後に復興された校舎が移っています。この頃はすでに本校とお茶の水女子大学(当時は東京女子高等師範学校)の間の道(現「音羽の坂」の道)と本校と跡見学園の間の道ができています。本校の側にはありませんが、お茶の水女子大学側には旧大塚陸軍弾薬庫の時代のものと思われるような擁壁が残っています。また、附属中と同じ区画の東端にある建物は1933年に建てられた旧東方文化学院東京研修所(後に外務省研修所も同居)で、現在は拓殖大学国際教育会館として往時の豪華なたたずまいを残しています・

 

なお、当初は上記の元の地図どおりに「1945年頃」としていましたが、地図中に「文京区」とあり、文京区は1947年に小石川区と本郷区が合併してできた区なので、その後の年をやや幅を持たせて表記し直しました。一方、附属中学校は1945年5月25日の空襲で校舎が焼失してしまい、しばらくは附属小学校の校舎に教室を間借りしていました。その後、1947年に附属高校が2階建て2棟の校舎をここに建て、続いてそれを4棟にして附属中学校も移ってきたので、おそらく上の地図は1950年以降のものと思われます。

 

1940年にこの地に建てられた校舎は、1945年5月25日の空襲で翌日焼失し、しばらく附属中は付属小の校舎に教室を間借りしていました。その後、1947年に元の場所に2棟の復興校舎が建てられて直後に学制改訂で高校生になる生徒たちが異動し、1950年にそれが4棟になったところで中学生も異動してきました。しかし、バラックに近い校舎が壊れやすかったことから新校舎建設の機運が高まり、1961年に鉄筋コンクリート作りの校舎(現在の校舎)が完成しました。

 

<おわりに>

以上が筑波大学附属中学校の敷地の変遷でした。ほぼ“完全版”のつもりですが、今後新しい事実が判明した場合は随時加筆・修正していきます。

(3/25/2023)(4/4/2023一部修正)(4/15/2023一部修正)(2/24/2024一部大幅修正)(3/19/2024一部修正)(4/6/2024一部修正)(4/20/2024全体大幅修正)

 

【参考・引用文献】

・『筑波大学附属中学校・高等学校 創立百年史』(1988)→『創立百年史』 

・『故きを温ねて 附属百二十年の足跡 筑波大学附属中学校・高等学校創立120周年記念写真集』(2008)→『創立120周年記念写真集』

・国立国会図書館所蔵写真帳

・国立公文書館デジタルアーカイブ

・文京区立図書館デジタル文庫

・日本国際文化研究センター所蔵地図データベース

・筑波大学附属中学校ホームページ

・筑波大学附属小学校ホームページ

・お茶の水女子大学ホームページ

・お茶の水女子大学附属中学校ホームページ

・お茶の水女子大学附属高等学校ホームページ

・Wikipedia「東京高等師範学校」「東京女子高等師範学校」「東京高等女学校」「東京女学校」

「一ツ橋」「神田区」「千代田区」「文京区」「東京外国語大学」「一橋大学」「東京大学」他

・Yahoo Japan マップ

・MapFan 古地図(※現在運用停止中)

 

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