エピソード37③:若い職場

前回(「エピソード37②:通勤は”痛勤”?」)の最後に、「それ(注:電車通勤が大変であったということ)以上に“痛勤”と感じることがありました。」と書きました。それは、筆者が最初に務めた学校は「県内の全160校の県立高校の中で5本の指に入る」と言われるくらい生徒指導が大変な学校であったからでした。

 

校内では喫煙や盗難、校外では窃盗や傷害事件などを起こす生徒が多く、教員は授業をするよりもそうした生徒への対応にエネルギーを使わざるをえませんでした。そのような学校であったので、教員の平均年齢がとても低く、全38名の常勤教員のうちに約半数が20代というような学校でした。

 

なぜそのようになるのかというと、ベテランの教員は誰もその学校に来たいという希望を出さないからです。現在はどうか知りませんが、当時は埼玉県の県立高校の教員の異動は「希望制」が基本で、異動先の高校のランク(A:大変な学校、B:中間の学校、C:進学校)を異動希望に書くことができました。その結果、筆者の学校には新任ばかりが配置されるという状況だったのです。

 

しかし、結果的にはそれは悪いことばかりではありませんでした。若い教員が多いということは、すなわち教員集団に勢いがあるということを意味するからです。また、40代の生徒指導部長の先生が強力なリーダーシップを発揮なさっていたこともあり、教員は集団として一致団結して指導にあたるという機運もありました。

 

そのような環境の中の面白い教員チームのエピソードをいくつか紹介しましょう。

 

①運動会の教員リレー・チーム

運動会のクラスリレーには、1年生の部に毎年教員チームも参加していました。6クラス対抗でしたので、第7コースが教員チームです。そして、毎年この教員チームが優勝していました。さすがに3年生には勝てませんが、1年生なら勝てるのです。生徒に勝って大喜びしている教員達(筆者を含む)のなんと大人げないことか…。

 

②沿線高校対抗の教員ソフトボール・チーム

筆者の務めていた学校があった東武越生線の沿線には、他に県立坂戸西高校、県立越生高校、私立越生高校もありましたが、当時はその4校の親睦を兼ねた教員ソフトボール大会があったのです。筆者は中学時代に野球部でサードを守っていましたので、勤務校のチームでもサードを任されました。そして、独自に身につけたウィンドミル投法で剛速球を投げる生徒指導部長の先生の活躍もあり、毎年のように優勝または準優勝をしていました。

 

③冬休みの教員スキー合宿

筆者が教員になった1980年代、スキーは若者の冬のレジャーとして一番の人気を誇っていました。当然、若い教員が多い筆者の勤務校にもその傾向がありました(スキー検定1級が3人、その上の指導者が1人いました)。そして、毎年冬休みになると教員有志で2泊3日程度のスキー合宿に行っており、行き先は決まって万座温泉スキー場(群馬県嬬恋村)でした。毎年9月1日の旅館予約解禁日は幹事になった教員が責任を持って旅館の予約をするという暗黙の了解もあったくらです。筆者が幹事を務めた年は講師も含めて21人で行きました。

 

今思い出しても、若いというのはいいことだなと思います。また、生徒指導は大変でしたが、あの頃はまだ今ほどの忙しさはなく、教員同士で余暇を楽しむ余裕がありました。(2/19/2022)

 

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