文京区ぶらり旅②:湯島聖堂(昌平坂学問所)

「文京区ぶらり旅」第2弾は、附属中学校(以下「本校」)から少し離れたところにある「湯島聖堂」の紹介です。よく近く(と言っても徒歩15分くらい離れていますが…)にある学問の神様「湯島天神」と間違われますが、まったくの別物です。元々は、孔子が興した儒学に傾倒した徳川五代将軍綱吉が孔子を祭る場所として元禄3年(1690年)にこの地に湯島聖堂を創建したのがここの始まりとされています。寛政9年(1797年)に幕府が学舎を広げ建物も改築して、孔子が生まれた地の名前をとって「昌平坂学問所」を開いたことから、そのように呼ばれることもあります。実は、ここも本校とは切っても切れない縁のある場所なのですが、これまで一度も行ったことがありませんでした(汗)。なお、その本校との関係は後の方でお話しましょう。

 

湯島聖堂は、東京メトロ丸ノ内線では本校の最寄り駅「茗荷谷」より東京方面へ3つ行った「御茶の水」駅(神田川をはさんだ両側にJRと東京メトロの同駅があります)の近くにあります。上の地図ではちょうど中央の道に囲まれた菱形(台形?)の場所です。すぐ北側には筆者も何度か行ったことがある有名な「神田明神」があり、すぐ西隣には筆者がいつもお世話になっている東京医科歯科大学病院があるのですが、そのすぐ隣にある同所には行ったことがなかったという体たらくぶりでした(汗)。そのようなこともあり、先日妻、息子と3人で現地を訪れてみました。

 

① 御茶ノ水駅と神田川をまたぐように架かる聖橋(ひじりばし)を渡りきったところ、つまり南西方向から湯島聖堂をながめた写真です。こちら側から見ると、手前の銀杏並木や敷地内の木々が邪魔でよく見えませんが、北側から見るとメインの「大成殿」の威容を拝むことができます。聖橋に近い方は土地が低くなっているので、橋からは敷地内を見下ろすように見ることができます。

 

② 左の写真は西門にある案内図です。正門にあたる仰高門は敷地の南東端にあり、そちらにも同様の案内板があります。中を見学する際は事前に案内図を見て各施設の位置関係を頭に入れておいた方がいいでしょう。なお、この案内板を見ると、昌平坂学問所にあたる場所は、敷地の西を走る本郷通りの反対側にある東京医科歯科大学歯学部の敷地内にあったことがわかります。

 

③ 大成殿を正面下(南側が下がっている)から望む場所にある「入徳門」です。"正門"と言える仰高門から大成殿に向かう道の途中にあります。大成殿は再建されたものですが、入徳門は宝永元年(1704年)に建てられたものが震災や大戦による消失を免れて残っています。


④ 上の写真では見ずらいですが(写真の中央付近に下半分だけが見えている)、門の下を通ると真上に「入徳門」と金文字で書かれた大きな額があります。藤原基輔の筆によるものだそうです。


⑤ 大成殿の前にそれを囲むようにそびえ立つ「杏壇門」(きょうだんもん)です。ここをくぐって大成殿の前に出ます。


⑥ 湯島聖堂のシンボル、「大成殿」(たいせいでん)です。またの名を「孔子廟」(こうしびょう)とも言います。写真ではわかりにくいですが、とても大きくて立派な建物です。江戸時代に4回消失する度に建て替えられてきましたが、最後のものも大正12年(1923年)の関東大震災で消失してしまいました。現在のものは昭和10年(1935年)に鉄筋コンクリート製で再建されたものです。

 


⑦ 大成殿は杏壇門をくぐって「前庭」に出るとその全容を拝むことができますが、前庭の左右にも回廊のような立派な建物が前庭を囲むようにあります。左側のものを「西廡」(せいぶ)、右側のものを「東廡」(とうぶ)と呼びます。この場所にいると都会のど真ん中にいることを忘れてしまうかのような静寂を感じます。

 

⑧ 出ました!孔子像です。仰高門から入徳門へ歩いていく途中にあります。像の土台の部分には右から左へ「中華民国台北市城中國際獅子會教立」とあります。隣に立っている石碑によれば、「獅子會」とはライオンズクラブのことのようで、同会によって昭和50年(1975年)11月3日に建立されたことがわかります。

 

⑨ これまで何度か説明に出てきた「仰高門」(ぎょうこうもん)です。ここが”正門”のようです。

 

※敷地内はすべて無料で見学できます。



⑩ 左の写真は敷地の南側を走る外堀通り沿いの塀です。右の写真はその塀沿いに立っている看板です。現在の通り名は「外堀通り」となっていますが、神田からお茶の水まで神田川沿いを登っていくこの坂道は元々は「相生坂」(あいおいざか)と呼ばれ、別名「昌平坂」(しょうへいざか)とも呼ばれています。おそらく、昌平坂学問所ができてからそう呼ばれるようになったのでしょう。

 

<本校との関係>

最後にこの場所と本校との関係の話です。昌平坂学問所(湯島聖堂)は、明治維新によって新政府の所管となり、明治4年(1965年)にこの地に文部省(現文部科学省)が置かれたほか、国立博物館(現東京国立博物館・国立科学博物館)、高等師範学校(現筑波大学)、女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)、書籍館(しょじゃくかん、現国立国会図書館)なども置かれました。そして、高等師範学校の附属学校、つまり本校(発足時は「高等師範学校附属尋常中等科」)と附属小学校もこの地に置かれたのです。ただし、当時の地図や校舎の写真を見ると、実際の場所は高等師範学校が現在の東京医科歯科大学歯学部のあたり、附属中学校と附属小学校が同医学部附属病院棟と歯学部附属病院棟のあたりだったようです。なお、昌平坂学問所の敷地の中で現在の東京医科歯科大学医学部附属病院棟の西側にあるM&Dタワーや立体駐車場のあたりは女子高等師範学校の敷地となりました。  

 

⑪ 左は東京医科歯科大学の正門の隣に2019年6月に建てられた碑です。同大学の場所が昌平黌(昌平坂学問所)跡であることやここにはかつて文部省があったこと等が、左横に立っているプレート(写真には写っていない)に日本語と英語で書かれています。


1898(明治31)年の東京高等師範学校平面図(国会図書館所蔵写真帳から)

左下の離れた校舎が附属中(附属尋常中学校)。中央右に湯島聖堂の大成殿、その右に附属小学校(第三部。第一部と第二部はの神田一ツ橋にあった)があり、湯島聖堂は師範学校の敷地内にすっぽり入っていることがよくわかります。現在の地図と照らし合わせると、同校の当時の「表門」あたりは今では「聖橋」になっています。

 

また、この敷地の左(西側)に隣接しているのが東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)で、現在の東京医科歯科大学医学部附属病院の西(向かって左)半分及びM&Dタワーの場所がそれにあたります。現在の同大学の正門のあたりに「女子師範学校通用門」がありました。(3/4/2023追記)

 

さて、本校がこの地に地にあったことは、本校の校歌(正確には「校歌」ではなく生徒会歌なので、「桐陰会歌」と呼ばれます)の二番にも表れています。なお、歌詞は当時の生徒(12回生、1903年卒業)が作詞したものです。

 

「桐陰会歌」歌詞(二番) ※一番から四番まであります。

 

四海干戈の音止みて 文華の光見え初めし

元和偃武の古の 思う学びの窓の下

昌平黌の跡訪えば 今も梢に仰ぐべし

 

ちなみに、上の歌詞はつぎのように読みます。

 

しかいかんかのおとやみて ぶんかのひかりみえそめし

げんなえんぶのいにしえの おもうまなびのまどのもと

しょうへいこうのあととえば いまもこずえにあおぐべし

 

上記の中の「昌平黌」とは「昌平坂学問所」のことです。「黌」という漢字が当用漢字からはずれてしまったので、一般的には昌平坂学問所と呼ばれています。

 

「本校の生徒であれば、一度はこの場所を訪れるべし」とは、筆者が着任当時から先輩教員(当時は「教官」)が言っていたことばです。まさかその場所を教官の一人である筆者が26年間も訪れたことがなかったなんて…。今回の訪問で改めて本校の歴史と伝統を肌で感じました。(3/27/2021)

 

<追記>

おお!ついに出ました!NHK大河ドラマ『青天を衝け』の終了間際に放送される登場場面や人物のゆかりの地として、5/30(日)放送回では「昌平坂学問所」(湯島聖堂)が紹介されました。一橋(徳川)慶喜(演・草彅剛)の家臣で、その回で暗殺された平岡円四郎(演・堤真一)が青年時代に通った場所として紹介されたのです。最初に「入徳門」の文字が見えたところで妻と「出た!湯島聖堂だ!」と大喜び。番組では上記では紹介できなかった大成殿の内部も見せてくれましたが、それ以外は上記の内容とほぼ同じでした(当たり前ですね)。(6/5/2021)

 

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