教師力を磨く(1):生徒の潜在能力を引き出し、育てる中学校教師の力量

※記事の一番下に雑誌記事の現物(PDF)があります。

1.「教師力」とは何か?

(1) 「教師力」の解釈

「教師力を磨く」というテーマで本稿の執筆を依頼された当初、私は少し困惑していた。それは「教師力」とは何かが定義されていなかったからである。もっとも、「教師力」に対する自分なりのイメージが全くなかったわけではない。それは自分の教師としてのライフワークが「『授業の名人』と呼ばれる教師の秘密を明らかにすること」であるからである。ここでいう「授業の名人」とは、英語の授業の場合、①授業の展開が明快かつ論理的である、②目を輝かせて授業に参加する生徒を育てている、③英語の運用力の高い生徒を育てている、という条件を満たしている教師を指す(肥沼、2000)。一方、「教師力」とは、ここでは教科指導における上記のような力量に加えて、より広く教育活動全般における教師の力量を指していると考えられる。そこで、本稿では「教師力」を次のように解釈し、話を進めたいと思う。

 

<教師力>=生徒が自ら伸びようとする力を 引き出し、育てる教師の力量

 

なお、私は教師力を学術的に研究している研究者ではなく、まして教師力に優れた教師でもないので、教師力を包括的に語ることはできない。そこで、自分がこれまでに出会った教師力に優れた先輩教師について主観的な印象を記述し、自分もそうないたいと努力してきた過程を述べたいと思う。ただ、それだけでも、経験の浅い教師、経験はあるが指導に苦労している教師、また近年増えている中学校併設によって中学生の生徒指導に戸惑っている元高校教師には参考にはなるのではないかと考えている。

 

(2) 教師力が発揮される場面

 先述のように、教師力を語る場合は一般的に一人の教師としての力量を指すことが多いが、教科担任としていかに学習指導を充実したものにするかという観点で教師力を議論する場合もある。そこで、これら2つを分けて自分の考えを述べていくことにする。

 

2.学級担任としての教師力

(1) 生徒をその気にさせる学級担任

最初にほとんどの教師に共通する仕事として就く機会が多い学級担任としての教師力について考えることにする。学級担任は、自分が受け持つ学級の個々の生徒の生活や学習状況の把握と指導に責任を持ってあたることはもちろんのこと、いじめの問題や人間関係のトラブルなどを未然に防いだり解決したりという、集団としての学級をスムーズに機能させる重要な役割を担っている。そこで、ある先輩教師の指導を例にとって学級担任としての優れた教師力とは何かを考えてみたい。その先輩教師とは前任校で同僚であった前埼玉大学教育学部附属中学校美術科教諭・山田晋治先生(現埼玉県市町村支援部義務教育指導科指導主事)である。

 

山田先生と最初に担任団を組んだのは、私が27歳で山田先生が29歳の時であった。20代の教師と言えばまだ若手で経験が浅いと一般的には考えられている段階であるが、山田先生はすでにベテラン教師に劣らない学級経営の手腕をもっていた。とにかく山田先生の学級になると、不思議と生徒はみなやる気にあふれてしまうのである。特にそれは行事で顕著に表れ、合唱コンクールや演劇コンクールでは常に優勝、体育祭でも団体競技である応援合戦では優勝してしまうのである。つまり、個々の生徒のもつやる気や集団としての生徒の団結力を引き出し伸ばす力に長けていた先生である。このような描写をすると、山田先生が生徒を強力な力で引っ張る、いわゆる熱血教師であるかのような印象を与えるかもしれないが、私の印象としてはほぼ正反対であり、どちらかというと若いうちから老獪さが漂うような先生であった。あえて例えて言うならば、人気マンガ「総務部総務課 山口六平太」(小学館)の六平太のような先生であった。

 

(2) 「生徒を育てる」という発想

では、山田先生はどうしてそのような学級集団作りができたのであろうか?それを語るには私は自分が適任者の一人であると考えている。その理由は、私が高校教師から中学校教師に転身した身であったからである。

 

前任校に着任した当時、私以外の同僚はみな公立中学校で勤務した経験があり、私は唯一の高校からの転任者であった。前々任校の高校は埼玉県内でも「5本の指に入る」(?)と言われるほどのいわゆる教育困難校であったので、高校とはいえ中学校並みかそれ以上の生徒指導の困難さをくぐり抜けてきた自信があった。しかし、中学校に赴任して学級担任を持つと、なぜか自分の学級の生徒がうまく育たない。むろん、山田先生の学級の生徒とはかなり差があった。

 

後に気付いたことであるが、それはそもそも高校教師であった私には「生徒を育てる」という発想がなかったことが大きな原因の一つであった。高校生はすでにある程度自分のことは自分でできるようになっており、集団で行う行事なども生徒任せにしておいても何とかなってしまう。ところが、中学生は入学したときから手取り足取り教えてあげなければならない。さらに言えば、入学時からどのような細かい指導を行ってきたかが、自我が芽生えて精神的に親や教師の束縛から独立しかかる2年生、自分の進路に不安を抱きつつも自立心が確立し始める3年生、の学級経営に大きく影響するのである。つまり、1年次にどのような“仕込み”ができるかで、その後の生徒の発達の方向が決まるのである。

 

(3) 優れた教師力をもつ先輩の実践例

山田先生はこの点について大変優れた指導力をもっていた。ここではその中で特に印象に残っている2つのことを記したいと思う。

 

1つ目は、新入生が入学してから3日目くらいのことである。その日の朝、山田先生が担任する1年D組の生徒が数名玄関の外の掃除をしていたのである。「なんでそんなことをしているの?」という私の問いかけに対して、その生徒たちはただにっこりほほえんで黙々と掃除をしていた。翌日の朝はまた別の生徒が数名掃除をしており、そんなことが一週間ばかり続いたのである。

 

後に山田先生にこのことを尋ねると、生徒に入学直後の学級活動で以下のような投げかけをしたそうである。

 

・新入生は上級生や先生方に大切にされるのが当たり前になっているが、新入生こそ学校への感謝の気持ちを表すべきではないか。

・感謝の気持ちを表す具体的な方法を自分たちで考えて実行してみてはどうか。

 

すると、生徒たちは自分たちで玄関前の掃除をしようと決め、当番を決めて実行したとのことであった。これは「自分たちで考えて決めたことを自分たちの意志で行う」ことが生徒を真剣に取り組ませる方法として大切であるということを学んだできごとであった。さらに、山田先生は生徒に「先生方や仲間に『なぜやっているの?』と尋ねられたら黙って笑っていなさい」と言っておいたそうだ。その理由は聞き忘れたが、おそらくそれは「学校のために自分たちができることをやっています」と公言してしまうことで、生徒が内なる動機から行っているという意識が壊れてしまうことを防ぐための仕掛けだったのではないかと思う。

 

もう一つは、学級日誌のことである。学級日誌は毎日日直が書くことになっていたが、山田先生の学級の日誌は全ページが芸術品のようであった。日誌にはその日の出来事を自由に書く欄があったが、山田先生は必ずそこに生徒によって書かれた記述以上の感想や返答をカラフルなペンで書いていた。すると面白いもので、生徒は段々とそこにたくさんのことを書くようになり、行間に線を引いて二倍書けるようにして書く生徒が出てきたと思ったら、次は欄外まで使うようになり、ついにはそのページ全体に自由記述が広がっていき、「今日は70行書きました!」「120行書いたぞ!新記録達成!」などということばが踊るようになっていた。

 

以上の山田先生の実践から学級担任として学べることは何であろうか?それはまず第一に、個々の生徒が本来持っている自ら伸びようとする力を上手に引き出してやることではないかと思う。そして、それを学級という集団で生きるようにすることである。ただし、そのためには、生徒が納得して行動できるきっかけを担任が提供してあげることが必要となってくる。第二に、生徒が行っていることを辛抱強く見守り、その過程と成果を認めて誉めてあげることだと思う。それによって生徒は自分に自信を持ち、さらに次の行動への意欲を持つのである。一方、これらのことに無頓着な担任の学級では、生徒が個人としても集団としても易き・低きに流れ、結果として諸々の問題を引き起こし易くなる傾向が見られる。したがって、学校における生徒指導上の問題を抑える意味でも、学級担任が先手を打って行動し、地道に指導していくことが大切であると思う。

 

3.教科担任としての教師力

(1) 人間関係作りに貢献する英語科教師

次に、教科担任としての教師力を自分が担当する英語科の立場から考えてみたい。英語教師には大きく言うと2つの役割がある。1つは外国語という言語を習得させる、つまり生徒に技能や教養を身につけてあげることである。そしてもう1つは、コミュニケーションを重視した指導の中で、他との関わり方、つまり人間関係をスムーズかつ良好なものにすることを教えることである。特に後者に関して言うと、とかく人間関係作りが下手になったと言われる昨今の生徒たちを指導する上で、英語教師は重要な役割を担っていると自負している。そこで、ここでは英語科教師として優れた教師力を持っていると思われる先輩の実践を紹介することにする。その先輩とは、現任校の同僚である筑波大学附属中学校教諭・蒔田守先生である。

 

蒔田先生と言えば、その授業を見た教師は誰もが「身体を切り売りしている」と評し、卒業生は「英語の授業を通して道徳の授業をしていた」と振り返る、「名人」中の名人である。確かに、蒔田先生の授業を見るだけで指導内容や指導法の勉強になる。しかし、それだけでは見えない、その根底にある教育理念こそ蒔田先生の教師力の神髄である。

 

(2) 個人の力を限界まで引き出す個別指導

蒔田先生に関してもその優れた点を書き出したらとてもではないが紙幅が足りない。そこで、ある一つの指導場面を切り口にして蒔田先生の教師力の一端を述べることにする。

 

現任校の英語の授業では生徒に発表をさせる機会がたくさんある。その場合、生徒の発表レベルを高く維持するためには、個々の事前指導をしっかり行うことが欠かせない。ただ、個々の生徒を指導する際、自分を含む大抵の教師はその生徒が持っていると“値踏み”した力の80%くらいできていればよしとして帰すのではないだろうか。ところが、蒔田先生はどんな生徒でもその生徒がもつ力を100%、いや120%発揮できるレベルまで高めて帰すのである。

 

ある年の研究協議会の前日にこんなことあった。公開授業では本校英語科が誇る「What Am I?」という活動が予定されており、クイズを出題する男女各1名が事前指導を受けに来た。ところが、そのうちの男子の方がなかなかうまくできず、しまいには「ボクにはできません…」と言って泣き出してしまったのである。しかし、蒔田先生はうろたえることなくその生徒を辛抱強く指導し、最終的にはその生徒も自分の力が予想以上あることに驚いて、笑顔で帰っていたのである。そしてその生徒は授業で仲間の予想をも超える発表を行い、仲間から喝采を浴びた。その発表の様子がどれほど素晴らしかったかは、その場面が本校英語科のプロモーション・ビデオ(教員及び受験生保護者向け宣伝ビデオ)に採用されたことからもわかるであろう。その生徒はそれで自信をつけ、次の機会ではさらに上の発表をしようと頑張っていた。

 

(3) 生徒のことを真に思いやる指導

蒔田先生のこのような指導風景から見えてくる指導理念はどこから来るのであろうか?それは一言で言えば、「生徒を心から思いやる気持ち」である。

 

蒔田先生のそのような徹底した指導は、教師の積極的な指導をあまり好まない生徒には最初は重荷に感じられることもあるようだ。しかし、そのような生徒も、仲間が次々と蒔田先生の“魔法”にかかって力をつけていくのを見せつけられているうちに自分もそのようになりたいと思ってしまう。もちろん、蒔田先生の指導が単に生徒をいじめるためのものであれば生徒は反発するであろう。そうしたことが起こらないのは、蒔田先生の指導が真に自分のためを思ってやってくれているのだということを生徒が敏感に感じ取っているからである。そして、この個々の生徒への地道な指導の連続が、結果として学級全体のレベルアップへもつながるのである

 

4.「教師力を磨く」とは?

では、最後に「教師力を磨く」ということについて考えてみたい。すでに前号や本号で他の方がいろいろな角度から述べられていると思うが、私はここまでふれてきた内容に沿った視点で述べることにする。

 

読者の方は、本稿で私が取り上げた2人の先生に共通点があることにすでに気付いているだろう。両先生の教師力を学級担任としての観点と教科担任としての観点で分けて述べたが、結局は両先生とも生徒から全幅の信頼を得ている教師であるということを。それは、山田先生が美術科教師としても超一流であること(生徒と一緒に山田先生の美術の授業を受けたとき、この先生に習えば自分も美術が得意になっただろうと思ったものである)、蒔田先生が学級担任としても他を圧倒する学級集団を作る教師であることからもわかる。

 

故に、両先生の優れた点を改めて見直してみると、「教師力を磨く」とは、教科の専門性や教師としての資質を高めることもさることながら、それを支えるもっと深い部分、いわばそれは「人間力」とでも表現できる部分を磨くことではないかと思うのである。

 

◇参考資料◇

肥沼則明(2001)「『名人』の授業に学ぶこと-各活動内容や指示の裏にある指導感を探る」『英語教育』2001年3月号、pp.30-33、大修館

 

(『指導と評価』2008年3月号、図書文化)

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