(4) のめり込んだ遺跡の発掘:板東山遺跡

「(3) お試しの遺跡の発掘:霞川遺跡」で遺跡の発掘作業の面白さを知り、続いて取り組んだのが同じ埼玉県入間市にある「板東山遺跡」でした。そして、この遺跡の発掘にはあしかけ5年間もかかわり(うち、アメリカに留学した1年間を除く)、遺跡の発掘の楽しさだけでなく、その意義も学ぶことになりました。

 

① 板東山遺跡の場所

 板東山遺跡は、(3)で紹介した霞川遺跡に対して、霞川の対岸、すなわち北側の丘陵地帯に位置します。 “山”という名前が付いているとおり、川の流れている場所より20~30mくらい高い場所にあります。その場所に登ってしまえば、周囲はほぼ台地のような広々とした場所で、そこの多くは現在茶畑になっています。もちろん、そこから北側はゆるやかな下りとなっており、それが「山」である所以です。

 実は板東山遺跡は大きく分けて2カ所あり、筆者が関わったのは右下の斜線部の方で、発掘責任者のSさん(霞川遺跡と同一人物)は、ここを「板東山Ⅱ」と呼んでいました。これは、左上の部分がその8年前(1972年)に先行して発掘された場所であることによります。

 この場所は、南東部(右下)にある等高線を見るとわかるとおり、ちょうど丘(崖?)の上の部分になります。ここにある会社の工場を建てるために発掘したのですが、予想をはるかに上回る遺構が出てきたために、結果的には5次、5年を要する発掘調査となりました。

 

② 板東山遺跡の遺構

 左の遺構図の中で、南北に走る細長い線が国道299号バイパスです。その真上を発掘したのが1972年に発掘した場所です(離れた2カ所があり、下が「A地点」、中央付近が「B地点」と呼ばれる)。その場所は、1972(昭和47)年に埼玉県教育委員会によって発掘された第1期の発掘場所で、国道299号線バイパスを建設するために発掘作業が行われました。また、その左側の部分は1991(平成3)年に埼玉県埋蔵文化財調査事業団が再調査した場所です。

 上記のA地点のすぐ東側の土地を発掘調査したのが、筆者が参加した第2期発掘調査です。遺構地図を見るとわかるとおり、たくさんの住居跡が出土しました。報告書(『入間川の遺跡』。板東山遺跡単体の報告書もあったが、紛失して見当たらない)には正確な数が書かれていませんが、筆者の記憶では100軒以上あったと思います。図面に「J1〇〇」(「J」は住居跡を示す記号)と3桁の数字を書いた記憶があるので、確かでしょう。

 また、大量の土器も出土しました。中には博物館でしか拝めないような大きな壺が完全な形で残っていたこともあり、周囲を丁寧に削って掘り出す作業に興奮したのを覚えています。

<追記> 

板東山遺跡は上記のようにかなり多くの遺跡が出土したことから、その後も上記の周辺部で何度か埼玉県埋蔵文化財調査事業団によって発掘が行われ、2023年5月時点で第11次調査まで行われているそうです(入間市博物館展示室の説明版より)。まだまだ今後も続けられるのではないでしょうか。

 

③ 筆者が取り組んだ作業

(その1)表土はがしと住居堀り

この作業は最初の霞川遺跡と同じもので、表土はがしは主に1年目の最初に行いました。その後は、住居跡と思しき場所をじょれんと移植で丁寧に掘り進めていくという作業を行いました。

 

(その2)遺物や遺構の実測・記録

霞川遺跡のときは“初心者”だったので、任される作業は主に肉体労働でしたが、板東山遺跡に関わるようになってからは、もう少し知的な作業、すなわち図面に記録する作業も任されるようになりました。

 

具体的な作業は、「(2) 仕事の内容」のイラストに描かれている「4」から「6」の、まさにそれらの仕事でした。最初は実測の補助をする側でしたが、段々と計測して描画する側も経験させてもらえるようになり、最終的には後者が主になりました。後の「(6) 遺跡の発掘から学んだこと」に詳しく書く予定ですが、この経験は後に新築する自宅を設計したり、自宅の庭を設計・施工したりする技術へとつながりました。

 

また、当然ながら遺物の写真撮影も行いました。

 

(その3)土器の洗浄・復元

板東山遺跡の調査は長期にわたり、かつ出土品も多かったので、発掘作業と並行して出土品の整理の仕事もしなければなりませんでした。その作業は主に発掘作業を行うのが不可能な雨天時に行われ、初期は発掘場所に建てられていたプレハブ小屋の中で、後には大量に出土した遺物を収蔵するために別の場所に建てられたプレハブ施設の中で作業をしました。

 

最初にやるのは遺物の洗浄です。歯ブラシのようなブラシを使って丁寧に泥を落とします。あまり強く磨くと土器が損傷してしまうので、細心の注意が必要です。洗い終わると小筆で図面に記された記号や番号を書き入れます。

 

次に行うのが土器の修復です。要するに「立体パズル」を完成させる作業です。出土したときに“完全品”でありながら壊れてしまっていたものは、位置関係がつかみ易いので修復は比較的簡単です。難しいのは“部品”の位置関係がよくわからないものです。これは多ピースのジグソーパズルをやる要領で位置決めをしていきます。ヒントは、部品の形・厚さ、表面の模様・色、などです。これらをよく見て周囲の部品との整合性を探します。見事に完成品ができたときは実に爽快です。

 

ただ、部品が足りなくてそれだけでは完成しない場合もあります。そのような時は、欠けている部分を石膏で作ります。その作業はさながら粘土で器を作る陶芸家のそれに似ています。陶芸家と異なるのは、そこに自分の独自性を出してはいけないことで、オリジナルの土器の完成品の姿を想像して作らなければなりません。周囲に連続した模様があるときには、欠けている部分の模様を彫刻することもあります。

 

(その4)報告書の執筆

発掘調査の最後に行うのが報告書の執筆で、板東山遺跡ではこの作業もやらせてもらいました。本来はこの仕事は筆者のような“素人”が行うものではないのですが、板東山遺跡はあまりにも遺構や遺物が多くて大量の記録があったので、筆者も原稿執筆のお手伝いをしました。この仕事に就いてすでに3~4年も経っており、数々の仕事をこなしてきたので、その時点では「調査補助員」という立場に昇格していたということもあったでしょう。また、そのおかげでアルバイト代も1.4倍になりました。

 

さて、具体的な仕事として最初に行うのは、個々の遺物の採寸とそれを元にした描画です。基本的には写真の記録があるのですが、主な出土物に関しては「絵」も添付されることになりました。次に図面を原稿用の紙に転写する作業も行いました。現場で書いた図面は鉛筆の濃さも太さもバラバラであり、かつたいていは汚れてしまっているので、それを原稿用の紙にトレースするわけです。この作業は目を酷使する大変な作業でした。そして、いくつかの遺構や遺物に関しての説明原稿も書かせてもらいました。原稿の書き方はSさんの原稿を参考にし、できるだけ客観的な記述とすることを心がけました。

 

④ 出土した遺構と遺物

 先述したとおり、板東山遺跡では縄文時代中期(約5000年前)から後期(約4000年前)の住居跡がたくさん出ました。

 左の写真もその1つで、中央に石で囲んだ炉があります。また床面に大きな土器が複数埋め込まれており、食品の貯蔵庫等として使われていたことがわかります。柱の穴がたくさんあるのは、同じ場所に何度も家を建て直したためと思われます。

 左の写真は住居集落のほぼ中心の場所に1つだけ見つかった敷石住居跡です。縄文時代の住居跡としてはとても珍しいものとされています。

 何のためのものかははっきりしないとのことですが、特別な場所であったことだけは、その特異な存在から推測できます。

 1972年の第1期発掘で出土したものとして有名なのが「甕棺墓(かめかんぼ)」、つまり土器製の骨壺です。九州地方では遺体をそのまま入れた大きな甕棺墓が大量に出土していますが、関東で縄文時代の骨壺が出るのは珍しいそうです。筆者が参加した第2期の発掘調査のときにも話題になっていました。

 その骨壺(左の写真)は、現在埼玉県立博物館(さいたま市)に展示されており、筆者も元勤務校の校外学習で何度か見たことがあります。

上のものは板東山遺跡から出土した土器の一例で、復元作業によりほぼ元の形に復元されたものです。ここにあるのは縄文時代のものとしては落ちついたデザインのものですが、他にもより派手なデザインのもの(例えば、燃える炎をかたどった「火炎土器」)もたくさんありました。それらの多くは「加曽利E式土器」(千葉県千葉市の加曽利貝塚から出土した土器にちなんで命名されたもの)と呼ばれる、口縁部が太く大きく、縄文模様のはっきりしたものでした。筆者が唯一覚えている縄文中期の代表的な土器です。なお、以上の写真・図面等は『入間市の遺跡』より

 

深鉢型土器(加曽利E式)

深鉢型土器(加曽利E式)

※炉に埋め込まれていたもの

打製石斧(左)・磨製石斧(右)

 


以上、入間市博物館ALIT展示室の「板東山遺跡」出土品の一部

 

<おわりに>

こうしてあしかけ5年(アメリカ留学中を除くと4年)にわたって従事した板東山遺跡の発掘。それ以後はいっさい発掘作業に携わったことがありませんが、この遺跡の発掘調査に参加して見聞きしたこと、経験したことは、40年近く経った今も鮮明に覚えています。

 

次回 (5) エピソード総集編 では、発掘調査を行っていたときの記憶に残るエピソードについてお話しします。

 

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