ここでは、1983年から1984年にかけて文部省海外派遣制度でアメリカ合衆国ネブラスカ州にある、ネブラスカ大学オマハ校に留学した時の経験を紹介します。なお、記載内容は私が長年作り続けている「英語科通信」に連載した記事(6回分)を一部手直ししたものです。
プロローグ: 留学に至るまで
◇目からウロコが・・・
そもそも「留学」というと「英語の成績が優秀でお金持ちの人が行くもの」という印象があったので、そのどちらでもない私は、自身が大学3年生になるまではまさか自分が留学するなどということは考えたことがありませんでした。ところが、いつも一緒に遊んでいた一学年上の先輩が文部省の制度で留学することになったというのを知り、目からウロコが落ちました。「えの人が行けるなら、もしかしたら自分も行けるかな・・・?」
◇絶対行くぞ!
小さい頃からこうと決めたら絶対あきらめない性分なので、もう「絶対行くぞ!」となってしまいました。ところが、私の英語力は同級生の中でも最低。さあ、それからは死ぬほど(?)勉強しました。
大学生といえば、いくらでも遊べる時期。しかし、私には留学という目標があったので、ひたすら勉強しました。寂しくて涙を流したことも正直言ってありましたが、我慢しました。とにかく、親のスネをかじって行くことはできなかったので、奨学金を勝ち取る必要があったのです。
◇田舎がいい
一方、私の通っていた国立大学はいわゆる姉妹校を海外にもっていなかったので、並行して留学先を自分で探すことになりました。
希望としては、まず第一にアメリカ。そして、その国らしさが最もよくわかる田舎にねらいをつけました。しかし、暗中模索。1からガイドブックなどを頼りに探し回り、自分の大学の成績表示(なんと英語版を自作しました)と高校の成績、それに英語力を示すTOEFLの成績を先方に送って合格の日を待つことになりました。
そして、ネブラスカ大学オマハ校(UNO)より「日本政府の奨学金を取ること」を条件に入学の許可を得たのです。
◇粘り勝ち
あとは文部省の奨学金を取ることだけです。枠は大学で1人。応募者は10数名。相当に厳しい門のはずでしたが、前述のとおり手続きその他がとても大変だったので、途中で1人、2人と脱落していき、最終的には候補者は私だけになってしまいました。まさに粘り勝ちでした。そして、偶然にも22歳の誕生日の日に文部省より正式な合格通知を受け取ったのです。
これを受けてネブラスカ大学もOK.その後は準備などであわただしく過ぎ、8月14日の出発日を迎えたのです。
◇大丈夫かな・・・?
ところで、それまで無我夢中で突っ走ってきたので、先々のことを落ち着いて考える余裕もなく飛行機に乗り込むことになりました。しかし、いざ飛行機のシートに腰を降ろすと、急に不安感が襲ってきました。「もう後戻りはできない・・・。」そう思うと足がガタガタ震えてきたのです。そうこうしているうちにシカゴ行きボーイング747は無情にも離陸を開始しました。こうなればもうやるしかありません。「まあ、何とかなるだろう・・・。」目をつぶりながら自分にそう言い聞かせました。
はたしてどんな生活が私を待ち受けているのでしょうか・・・?
以降のことはそれぞれ以下のページでお読みください。
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