名称を見ただけで「ピン!」と来た方もいらっしゃるかと思いますが、今回ご紹介する場所は旧民主党(現立憲民主党)の元党首であり、元内閣総理大臣でもあった鳩山由紀夫氏が館長を務める建物です。この建物のことをご存じの方は、由紀夫氏の祖父であり自由民主党初代総裁であった鳩山一郎元内閣総理大臣が建てた自宅兼執務室の洋館であることもご存じでしょう。さらに、勤務校の関係者(教員や卒業生等)であれば、同館が勤務校とも関連があることをご存じだと思います。その件については後ほどふれることにします。
なお、筆者は同館を紹介することと自分の政治に対する考えの間に関係がないことを示すため、本記事のアップは2021年10月31日の衆議院選挙が終了した後にすることにしました。単なる「観光地」の紹介としてお読みください。(2021年12月11日)
<位置関係>
今回ご紹介する場所は、勤務校から最も近い「観光地」です。勤務校の正門からは徒歩約10分、両者の敷地間の直線距離なら約150mしか離れていない場所(上の位置関係の地図参照)であるのに、通勤駅とは反対方向にあることもあって、勤務して27年経つ間に一度も行ったことがなかった場所です。まあ、学校の周りを一周したことさえなかったのですから(「② 我が学校をぐるり一周」参照)、それも仕方のないことかもしれませんね(笑)。
上の拡大地図とその場所の写真を見ていただけるとわかるとおり、片側2車線の音羽通り(護国寺の元参道)の両側に建つマンションや会社のビル群の間にぽっかりと空いた場所に入口(正門)があり、その奥にある小高い森の中に件の館があります。ただ、この場所からは木々に隠れて館は見えません。
上左(スマホでは上の上)は正門を少し斜め左から撮ったものです。左側の柱には住所が彫られている石が埋め込まれており、"普通の家"(!)の入口であることを示しています。門を入ったところに見える白線はバスの停車位置の表示で、別の日に再度訪れたときには観光バスが1台停まっていました。右(同上の下)の写真は左の写真のさらに左の壁に埋め込まれている会館のプレートです。
正門を通り抜けるといきなり急坂が始まります。拡大地図でもわかるように、くねっと曲がった坂道になっているのですが、これがかなりきつい坂で、一気に登ると息が切れて太ももが痛くなります。ちなみに、坂を登り終えたところで後ろを振り返ると、入口の横にあるマンションの7階と同じ高さであることがわかりました。
急坂を登り終えると左側に目的の洋館が見えてきますが、この場所からは全体像はわかりません(上左)。入口らしい場所に近づいていくと、ようやく建物が斜め前から見える場所にたどり着きます(上右)。
入口は1階にありますが、受付に行くにはそこから赤い絨毯が敷かれた階段で2階へ登る必要があります。いかにも洋館に入ったという感じがする重厚な作りの入口です。
写真にはありませんが、階段を登り切ったところの左側に受付があり、入館料を支払う自動券売機があります。入館料は大人600円です。
ただ、今回は単なる一般客として入ること以上の目的があったので、受付の方に用件を話して支配人さんを呼んでいただきました。実は、「英語科教官列伝」のコーナーでも紹介している『附属中学校卒業生列伝』(山口正著)という本を手見上げに、同館の詳しい内容を支配人さんから伺おうというねらいがあったのです。その話の内容は後述します。
入口の階段を登り切ったところで後ろを振り向くと、吹き抜けの最上部にステンドグラスがはめ込まれているのが見えます。「鳩山会館」らしく鳩の絵が描かれています。
エントランスホールの天井には、カバーが影絵のような役目を果たしている電灯があります。支配人の方に教えていただかなければ気がつかなかったかもしれません。
上左は第1応接室、上右は第2応接室です。パンフレットによると、鳩山一郎氏が総理大臣であった時代は、よく第2応接室が政治の舞台として活躍したそうです。
第1応接室南側(庭側)の窓の上にもステンドグラスが埋め込まれています。こちらも支配人の方に教えていただきました。
第2応接室のとなりは食堂(ダイニングルーム)になっています。今回はこのテーブルに座って支配人の方からお話をうかがいました。
階段を登った右側はテラスへの出口になっています(上左)。テラスに出ると木々の間に都会のビル群を見下ろすような景色が広がります(上右)。
2階には資料室として「一郎記念室」「威一郎記念室」、展示室として「薫記念室」が公開されているほか、貸し出し可能な大広間(左の写真)もありますが、大広間以外は撮影が禁止されています。なお、「威一郎」とは元外務大臣であった一郎氏の長男(由紀夫氏の父)、「薫」とは一郎氏の妻のことです。
第2応接間と食堂の前にあるサンルームから外を眺めると、見事な芝生の広い庭が見えます。小高い丘の上に建っているため、木々にふさがれた部分だけでなくその上方にも都会のビル群が視界に入ってきません。都会のど真ん中にいることを忘れさせられる風景です。
庭に出て振り返ると、ようやく洋館の全景を見ることができます。天気があまりよくない日だったので庭も館も暗い感じがしますが、晴れた日の写真を見るととてもきれいです。
この洋館の設計は大正・昭和初期を代表する建築家として有名な岡田信一郎氏によるもので、1924年に一郎氏の注文により建てられました。
同館はバラの花がきれいなことでも有名です。筆者が行った10月下旬はちょうどバラの花の最盛期で、庭のいたるところで咲き誇っていました。同館のホームページでは常時庭の花の開花情報をアップしているので、ご覧になってみてください。
左は庭の隅にある一郎氏の銅像です。2007年1月に建てられたもので、作者はロシアのツェレテリ・ズラブ・コンスタンチノビッチ氏です。2006年10月19日の「日ソ共同宣言・日ロ国交回復50周年」記念に合わせて建てられたそうです。
本館から庭に出てすぐ左側にもう1つの銅像があります。パンフレットによれば、こちらは一郎氏の両親(和夫・春子)の銅像だそうです。
☆勤務校との関係☆
最後に、同館と勤務校との関係についてお話しします。と言っても、同館と勤務校が何か直接的な縁で結ばれているということではありません。鳩山家やその関係者から勤務校の卒業生が多くでているということです。主な人をご紹介しましょう。
◇鳩山一郎(本館の建て主)(1883~1959)
鳩山一郎氏の経歴等については省略します。一郎氏と勤務校との関係とは、一郎氏が勤務校の前身である東京高等師範学校附属中学校の卒業生(9回生)であるということです。「英語科教官列伝」でも紹介している『附属中学・高校 卒業生列伝』で一郎氏を特集している号(第465号)によれば、鳩山家がこの地に居を構えたのは一郎氏の父・和夫氏の時代であったようです。
そのような経緯もあったと思いますが、一郎氏は東京高等師範学校附属小学校に入学し、そのまま附属中学校に進みました。その後の経歴は同館のホームページで詳しく読むことができるので省略しますが、『卒業生列伝』の件の号には一郎氏のことばとして中学校時代の面白いエピソードが載っています。
「母は私の為に特に工夫して、精神を散らさぬようにと静かな時を選び、まず英・漢・数とその日その日の分量を定めて、毎日午前三時半ころに私だけを起こし、ざっと二時間くらいも、しみじみと私の勉強を見てくれた。冬の日の午前三時半はもちろん真っ暗である。(中略)どんなに鈍感なのんびり息子でも、我が母のこうした努力と配慮に対して、どうして発奮せずに済まされよう。(中略)多少の断続は生じたにせよ、少なくとも十年の余は続けられたのである。」(鳩山一郎著『私の自叙伝』(改造社、1951)より)
最近は子供べったりの教育ママが多いと言われますが、いつの時代も母親というのは子供の教育に熱心であることがわかりますね。なお、驚くべきことですが、当時は全校生徒の成績一覧表が校内の売店で売られており、互いの成績を見合うことができました。時々古本屋などにそれが置かれていることがあり、『卒業生列伝』の著者・山口正先生に一郎氏の代の成績一覧表を見せてもらいました。一郎氏がどのような成績をとっていたかは、今では個人情報保護の観点から秘密です。
◇岡田信一郎(本館の設計士・建築家)(1883~1932)
本館を設計した岡田信一郎氏は、同館のホームページによれば「一郎の友人」とあります。実は、岡田氏は鳩山氏と中学校時代の同級生、つまり本校の卒業生(9回生)でもあるのです。鳩山氏は子供のときからの友人であった岡田氏に同館の設計を依頼したというわけです。
岡田氏は大正・昭和初期を代表する有名な建築家で、鳩山会館、東京歌舞伎座、東京都美術館、神田ニコライ堂(修復)、明示生命館などを設計したことで知られています。岡田氏は鳩山氏とともに一高、東大へと進み、東京美術学校(現東京芸術大学)の教授になりました。
なお、前出の『卒業生列伝』では鳩山氏の号の次の号(第466号)が岡田氏の特集となっており、一郎氏の発言として次のような岡田氏の中学校時代の様子が紹介されています。
「(来年は一高の入学試験を受けねばならないころ…中略)自分で勉強しようというようになってから、(中略)私は同級生であった岡田信一郎君と、英語で書かれた幾何の本を半分ずつ勉強しあったことをおぼえている。当時、数学の先生であった根岸先生の応用問題は、必ずその本から出たので、二人でその本を勉強したというわけだ。そのために岡田君と私とはこの応用問題で、少しも苦しまなかった次第であった。」(鳩山一郎著『私の信条』(東京文庫、1952))
なお、鳩山会館の設計にあたっては、当初は別の建築家が設計・施工する予定であったものを、岡田氏は親友たるものを差し置いて他人にやらせるとは何事だと言い、無償でも自分がやると言って、鳩山邸の建築を行ったと言われています。また、鳩山邸が完成する前年の1923年に関東大震災が起こったときは、土台まで完成していたらしかったのですが、鳩山氏からどんな地震にも耐えられる家にしてほしいという要請があって、さらに頑丈な建物になるように設計を変更したということです。
◇鳩山秀夫(一郎の弟)(1884~1946)
一郎氏の1歳下の弟で、勤務校の卒業生(10回生)です。息子の道夫氏(37回生)、孫の明氏(75回生)も卒業生です。秀夫氏が子供の頃には「鳩山会館」はなかったわけですが、その場所に兄・一郎氏と共に旧邸宅に住んでいたことは確かでしょうし、『卒業生列伝』の第471号に特集記事があるので取り上げることにしました。
『卒業生列伝』によれば、秀夫氏は幼い時から兄・一郎氏よりも勉強ができただけでなく、同級生であった穂積重遠(渋沢栄一の長女・歌子の夫)との一高、東大での主席争いでも著名であったと言われています。秀夫氏が後に法学者として東大教授になったことや衆議院議員になった事実からもそれはわかるでしょう。兄・一郎氏も秀夫氏の優秀さを認めており、前出の『私の自叙伝』に次のような記述があることが『卒業生列伝』で紹介されています。
「弟は私よりもずっと頭がよいのである。中学三年頃からは、全く無類に飛び離れた秀才ぶりを発揮していて、兄貴たる私は正直をいうと内心少なからず恐怖をきたして居った。私と弟は一級ちがいだから、もしかして一度でも落第をとれば、私は弟と同級にならねばならぬ。それは直ちに私の頭が良くない事実の証明以外の何物でもないわけである。」
東大で主席争いをし、後に総理大臣になった兄にここまで言わせた秀才とはどんな人だったのでしょうね。
◇鳩山邦夫(一郎の孫、由紀夫の弟)(1948~2016)
元衆議院議員で多くの大臣(文部、労働、法務、総務)を歴任した鳩山邦夫氏も勤務校の前身である東京教育大学附属中学校の卒業生(75回生)です。当時、鳩山会館が自宅であったということですから、例の急坂を下り、音羽の坂を登って毎日通っていたことでしょう。
邦夫氏の経歴についても省略しますが、邦夫氏のことについては一般書として刊行されている『卒業生列伝 日本の知性と感性』(山口正著、筑波大学附属中学校刊)という本の方に書き下ろしの記事があります。残念ながら、そちらにも邦夫氏の中学校時代のエピソードは紹介されていませんが、氏の子供の頃からの心がけのエピソードとして次のような記述があります。
「彼は、兄・由紀夫があまり政治に興味がなかったことに対して、小学生のころから総選挙のときなど、ラジオの開票速報に耳を傾けて誰が当選するか、などのことを予想していた、といわれるほど早くから政治に関心を持ち、大学も、兄が東大工学部に進学したのに対して、彼自身は東大法学部に入学しました。そして、そのころすでに『オーパパ(鳩山家では、祖父の一郎のことをオーパパと呼んでいた)のつくった自民党を壊す』ということなども語っていました。」
なるほど。邦夫氏が最初に新進党などに参加したのも子供の頃からのそういう気持ちがあったからかもしれませんね。
<まとめ>
以上が同館と勤務校との関係でした。
同館は2024年に開館100周年を迎え、記念行事を開催することを予定しているそうです。それを機会にまた新たな資料等が公開されるかもしれないので、また改めて訪れてみようと思います。
あなたもジンドゥーで無料ホームページを。 無料新規登録は https://jp.jimdo.com から