「文京区ぶらり旅」の第1弾です。「つぶやき」の「84. 『文京区ぶらり旅』が始まります!」にも書きましたが、筆者は埼玉の自宅から文京区の学校に26年間も通いながら、学校の周辺にあるもののことをほとんど知りません。その最たる例が、なんとつい先日まで学校の周りを一周することすらしたことがなかったのです(嘘ではありません)。以前からその点を気にはしていたのですが、特にその必要性もないことからそのまま放っておきました。しかし、本コーナーを書くことを決めて、26年目にして初めてそれを実行したというわけです。今回はその“旅”で気づいたことをお話ししましょう。
上の地図を見ていただければわかるとおり、本校の敷地は北面こそ道路に面していますが、東・西・南面は住宅等が隙間無く接しており、敷地の境目にある塀の外側をぐるりと一周することはできません。したがって、手書きで示した①(正門)から⑩(同)まで数字で示した道を通るのが最短距離で一周する方法となります。そこで、①から⑩まで各所で撮った写真とともに学校の周辺について紹介します。なお、番号の矢印は写真を撮った方角を示しています。
① 正門前から西側を撮影した写真です。この通りは通称「音羽の坂」と呼ばれており、②の先のところまで約200m続くだらだらした坂です。この坂は元々は無かったものですが、崖下の音羽通りへ降りられるように切り通しとして作られた道です。春はウグイスの鳴き声、夏はセミの大合唱を聞きながら、地下鉄有楽町線「護国寺」駅(地図の左上)より文字通り“登校”します。
② 北西の角、①の音羽の坂を降りたところにあるイタリアン・レストラン「コクリコ」です。ジブリのアニメ『コクリコ坂から』のタイトルの由来になった店と言われています。店主さんによると、原作マンガの出版社である講談社の関係者がよくここを打合せに使っていたことからその題名が付けられたそうです。物語の舞台は横浜ですが、コクリコ坂とは音羽の坂のことかもしれません。
<NEW>上の2枚の写真は①と②の間、つまり「音羽の坂」の本校の敷地の外壁です。左の写真は10/30に撮影したもので、右の写真は11/1に撮影したものです。いずれも朝7時頃に撮影しました。この約200mも続く外壁は北に面していることから陽当たりが悪く、コケが一面に生えています。秋から冬にかけて乾燥した日が続くと左の写真のように暗い色になってしまいますが、雨が降ると右の写真のように明るい緑色になります。つまり10/31に雨が降ったということです。
③ 本校の西面は崖になっているため、西側に位置する家は崖の斜面に建っています。写真の道路(②の右側に見える道)の左側に並んでいる家は、ほとんどが自宅敷地内にある急な階段を登って、2階の高さくらいのところに玄関があります。道路の右側の家々は1階に玄関がありますが、その向こう側は同じような崖になっています。
④ ③で紹介した道路は南端で行き止まりとなっており、そこに石段があります。上から見下ろすと結構急で、恐怖さえ感じるほどです。段数もそこそこあり、高低差もマンションの3階分くらいあるので、下から一気に登ると息が切れます。これを降りると、③の右側の家の西側にある崖下の道に出ることができます。
「筑波大学附属中学校について」の「[スピンオフ]附属中学校の敷地の変遷」にも記しましたが、本校の敷地は旧陸軍弾薬庫(大塚陸軍弾薬庫)の跡地の南西部にあたる場所にあり(北部はお茶の水大学、南東部は跡見学園の敷地)、崖地を上手に使った場所であるため、特に西部は急な崖になっています。本校がこの地に移転した昭和15年(1940年)の写真ではこの付近にはほとんど家が写っていませんが、現在はほぼ隙間がないほど住宅地になっています。
⑤ 本校の南側を東西に走る道です。音羽の坂の反対側にある道なので、当然上り坂があることは想像できますが、なんとそこは長い石段になっています。左の写真は坂を下から撮ったものですが、これが登ってみると結構きついです。音羽の坂の半分くらいの長さですから、同じ高低差をおよそ倍の勾配で登るというわけです。また、右の写真は坂を登り切ったところで振り返って撮ったものです。なお、『文京区の坂』という地図によると、この坂には「鼠坂(ねずみざか)」という名前が付いています。
⑥ ⑤の「鼠坂」を登り切ってそのまま少し行ったところで東向きに撮った写真です。文京区は江戸時代に武家のお屋敷が多くあった場所なので、今でもその名残があります。すなわち、大きな邸宅が多いということです。都心の一等地に広い敷地をもった高級住宅が多くあります。
⑦ ⑦の交差点で北向きに撮った写真です。写真の右端におそらく古くからやっているであろうと思われる豆腐屋さんがあります。ここから先は⑥よりさらに高級そうな家が左右に並んでいます。このまま進んで⑧の少し手前の右側にはザンビア共和国大使公邸があり、一層豪華なたたずまいを見せています。
⑧ 左側の塀は拓殖大学国際教育会館のもので、中に立派な建築物があります。元々は1933年に内田祥三の設計により東方文化学院東京研究所(現:東京大学東洋文化研究所)として建てられたもので、戦後は外務省の研修所でした。それが20年くらい前に拓殖大学に払い下げられました。右側のビルは跡見学園女子大学文京キャンパスで、跡見学園中・高と同じ敷地内に建てられています。
⑨ 「新大塚公園」から文京区立音羽中学校の方角を眺めたものです。同中学校の場所は元々は文京区教育センターでしたが、附属中の正門の斜め左前にあった文京区立第七中学校が統廃合されてセンターの跡地に音羽中が建てられました。現在、旧七中の敷地は音羽中のグラウンドとなっています。
⑩ 正門から東方面(①の反対方向)を眺めています。右側に見えるのは本校の体育館です。道の反対側、つまり写真の左側はお茶の水女子大学の敷地です。ここには同大学のほか、附属幼・小・中・高もあります。同大学は前身が東京女子高等師範学校なので、筑波大学(前身が東京高等師範学校)とは兄弟校(姉妹校?)であるとも言えます。
いかがだったでしょうか。たかだか学校の周りを一周しただけですが、いろいろな場所があることをご理解いただけたと思います。学校の南側のことをこれまでまったく知らなかった筆者も、今回の"旅"で多くのことを学びました。
なお、次回は学校から少し離れたところにある施設を紹介する予定です。お楽しみに!(2/27/2021)
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