エピソード37③:高から中へ

高校の教員になって3年目の昭和62(1987)年ある日、1本の電話がかかってきました。電話の主は、教育実習でお世話になった元埼玉大学教授(当時は埼玉大学教育学部附属中学校教諭)の故・真尾(さなお)正博先生でした。

 

真尾先生は、その数年前に上越教育大学の大学院を修了されていて、翌年から埼玉大学の教官として異動されることが決まったので、その代わりに私に附属中へ来ないかということでした。実は、教育実習中にそれとなくそのようなことが将来起こる可能性を示唆されていたのですが、まさか本当にその話が来るとは思っていなかったので、「少し考える時間をいただけないでしょうか?」とお願いしました。ところが、元来(?)気の短い真尾先生は「今すぐに返事をしろ!」とおっしゃるのです。それで、その勢いに押されて「あ、はい。わかりました。」と返事をしました。

 

承諾の返事をしてしまったものの、その後にはいろいろな思いがめぐってきました。

 

まずは当時担任していた高2の生徒たちのことでした。生徒指導がとても大変な高校ではありましたが、クラスの生徒たちとは授業及び文化祭や体育祭などの行事をとおして比較的良好な関係が築けており、その生徒たちと別れるのがとても惜しい気がしました。

 

また、元々は学生時代は中学校教師になるつもりであったのが、教員採用試験を受ける直前に高校教師になることに変更したこともあり、中学校教師になることへの不安もありました。

 

そして、何よりも気がかりであったのが、「附属中学校に赴任した後に埼玉県の中学校の教員採用試験を受けてもらうことになる」という条件があったことでした。その理由は後の回(⑤を予定)でお話しますが、「なんてこった。また採用試験を受けなきゃならないのか…」という思いがずっとあったのです。

 

もちろん、楽しみなこともありました。

 

大きな楽しみの1つは、自分を育ててもらった附属中学校で後輩達の教育実習を指導できることでした。当時、附属中学校では前期に5週間、後期に5週間の中学校英語専攻生の教育実習があり、さらに後期には2週間の小学校専修生の中学校副免許用の教育実習がありました。計12週間もの間教育実習生の面倒を見ていたのです(筆者が附属中から異動した数年後にこの制度は別の形に変わりました)。当時は大学卒業後にほとんどの学生が教員になっていた時代でしたので、将来教員になる学生を指導できることはとても嬉しく思いました。

 

もう1つは、大きなプレッシャーと表裏一体でもあったのですが、県内の先生方の模範となるような授業をする教師になれるのではないかという期待感でした。各都道府県にある国立大学の附属学校は、その都道府県の教育活動の中心的位置にあるという認識があったので、自分がその立場になれることはとても名誉でした。

 

こうして3年間の高校教師としての生活を終え、昭和63(1988)年4月に埼玉大学教育学部附属中学校教諭(正式には「文部教官教諭」)として新しい生活を歩むことになりました。しかし、そこは想像していた以上に大変な職場でした。そこでのエピソードは今後の本コーナーで順次紹介していきます。(2/26/2022)

 

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